本日(2024年1月17日)午前5時46分、
手を合わせて黙祷しました。
日本全国の人々に、少しでも多くの「心の平安」がもたらされますように・・・
などと願っておりました。
連日「能登半島」地震の関連ニュースも見ては、心を痛めますね。
それなのに、現地では火事場泥棒や悪徳商法をする人達がいるとのことで、
本当に許せない行為ですけれども、
それが現在になりつつある「日本人の民度」であるとも思います。
例えば、「選挙に行かない人が多い」、
「信号機のない横断歩道で、停車する運転手が少ない」、
「歩道を猛スピードで走る自転車がいる(時にベルを連打する者もいる)」
「歩きスマホをしながら、前をよく見ずに突っ込んで来る人がいる」
「歩道に横並びで歩いて、向かって歩く人をよけない(相手によけさせる)子供達」
などなど、政治家(特に自民党議員)をはじめとして
「自分さえ良ければいい」という人達が、もの凄く増えている気がします。
これはインターネット上を見ても、反映されていますね。
数年前、(日本に住んでいる方なら、大抵知っているような)
大きな会社への裁判を弁護士に依頼したこともありましたが、
そんな知名度のある大きな会社であっても
「法律に触れなければ何をしても良い」ということが、
まかり通っているようです。本当に道徳も何も無く、
この企業に限らず、大企業や有名会社であっても、
やたらに信用できなくなっている時代とも言えます。
しかしながら、この世に生かされている限りは、
お互いに助け合って、生きて行けるように
(各自で出来るような)行動をしたいものです。
さて、ここから
『阪神・淡路大震災(1995年1月17日)を忘れない(1)・・・成り行き編』
からの続きです。
(日本ガス協会からの要請で、社内から最初に1名、次から一度に2名ずつ
現地へ赴任させるところ、2名の内のあと1名が決まらない状態だったため)
ある月曜日の昼過ぎ、突然に会社命令で
「明日から現地へ行って欲しい」と言われた私は、
夕方に早退させてもらって、新しく下着などを買い求め、
2週間分の支度をした訳ですけれど、
もう気分は不安で落ち着きませんでした(苦笑)
火曜日の朝、東京本社へ出向き、
新幹線の切符をもらって大阪へ行きました。
向かう職場は、大阪ガスの社員寮です。
「今津」という駅に向かうものの、もう路線名も忘れましたが、
急行が入れ違いで発車してしまい、各駅停車の電車に乗りました。
高い場所を走る(高架線の?)電車で、今津駅に近ずくにつれ、
ブルーシートで覆われた家の数が多くなっていくのを眺めながら、
もう何か不安で、引き返したくなったのを覚えています・・・
今津駅の近くになると、またブルーシートで
覆われた家は少なくなりましたが、本当に私は仕事が出来るのだろうかと、
それも心配でした。
大阪ガスに担当者がいて、彼らから現場の資料(どこの路線の
ガス管が被害を受けているとか、どこの路線のガス管を
どのように工事したのか等、現場報告メモのようなもの)を都度もらい、
打ち合わせをして、それを大阪ガスの社員寮へ持って行って、
そこで現場の資料をまとめ、整理、統合したり、
復興のための書類などを各自で作っていました。
1日に何度か、大阪ガスの建物と、社員寮とを
行き来するのですけれど、本来は晴れていると思えるものの、
そとは一面が埃で覆われ、薄暗い、灰色の景色でした。
本当に空気が灰色になっているんですね。
ですから、マスクはしていても、あまり役には立たず・・・
社員寮の水道はダメになっていて、トイレに流す分は
給水車からタンクに補給されておりましたが、
飲み水としては使えず、昼と夜は、大阪ガスから支給される
「お弁当」を電子レンジで温めて食べていました。
最初から、最後まで、同じお弁当でしたが・・・
周辺のお店でも食べ物は手に入らなかったらしく、大阪ガスが
建物の外で私達に配っている「お弁当」を
近所の方達が売って欲しいと来ていたのも目にしていました。
大阪ガスの社員寮で仕事をしていたのは、私の他に、
同じ会社で先に来ていた本社勤務(私より一回り位上の年齢)の
男性ひとりと、同業で複数の他社から2人ずつ、
確か計8人いて、私のような若者だけでなく、年配者もいました。
また時々余震もあり、そこでは寝られないというので、
深夜は心斎橋のビジネスホテルに(電車で、もみくちゃに押しつぶされて)
寝に帰ります。私と同じ会社の人がリーダーとなり、
常に8人は一緒に行動することになっていました。
その心斎橋のビジネスホテルでは、8人全員が一緒で、
同じ部屋で寝るという待遇・・・しかも、狭いので、
布団がお互いに少しずつ重なっていて・・・(苦笑)
知らない人達と、布団が少し重なった状況、
相手の頭が間近にある状態で寝るというのは、衝撃的で、
しかも年配者たちは心斎橋のコンビニで得た酒(ワンカップ?だったか)
で、(私と同じ会社の)人と、いかがわしい店の話で盛り上がり、
私は「疲れているので早く寝たいんですけど・・・」と
思わず初日に言ってしまった気まずさ・・・(大苦笑)
朝食は、そのホテルのバイキングで・・・とのことですが、
初めから殆ど何もない・・・パイナップル、オレンジを
小さくカットしたのが、毎朝、何個か残っているだけ・・・
みんな衛生面を気にして食べず。
私はそのパイナップルの小さく切ってあるのを1つ、2つだけ
食べてましたが、何も口にしないよりは良いかな、と思い・・・
記憶が間違っていなければ、朝の7時30分頃にホテルを出発して、
社員寮での仕事終わりは夜の9時過ぎだったはずで、
「自分の時間」というのが無いんです。
社員寮の大部屋で、みんな揃って仕事してますし、
移動も寝るのも一緒です。
仕事中、社員寮のトイレに行った時だけが・・・唯一、
自分一人になれる時間で、何だか『ほっとする』のと同時に、
無性な寂しさも感じるひと時で、他の人も同じようでした(笑)
大阪ガスの人達だけでなく、日本全国から、
いろんなガス関連会社の人達も来ていて働いている訳ですが、
みんな疲れていて、風邪が蔓延していました。
ストレスだけでなく、衛生環境、栄養状態が
あまり良くなかったこともあったと思います。
私も現地に来て4日目位に、一緒にいた職場の方から、
うつされて熱を出しました。
みんな順繰りに熱を出し、ゲホゲホ、ゴホゴホしながら、
ティッシュで鼻をかみながら、仕事してました・・・
休めませんからね。
被災された方達の不憫なことを思えば、
不満は言っていられないんですけど、今よりもっと
未熟な私にとっては、大きな経験をさせていただきました。
当時、会社の中で “現地へ行って欲しい” と「声がかかった人」と
「まったく声がかからなかった人」がいて不思議でした。
私は社内で3人目(最初は自衛隊にいたような人、2人目は本社勤務の中年、独身男性)
に言われて赴任しました。後、何人かが終了まで赴任しています。
なぜ、声がかかった人と、まったく
かけられなかった人がいたと思いますか?
私は中途入社で、その時まだ「入社5ヶ月未満」なので、
仕事ができるかどうか等は関係ないと思ってましたが・・・
答えは・・・
現地に行かせた(赴任させた)社員が、
災害により現地で死んだ時・・・・に会社が負担する保障金です!
「なるべく若い年齢」、「独身者」、
そして(跡継ぎのため)「男性の兄弟がいる」という
条件に合致する従業員であることが、
「社長命令」として部長に出されていたそうです。
これに合致したのが、当時の私だったということでした。あぁ・・・
でも、おかげさまで、
この経験から、私も少し成長させていただきました。
当時被災された現地の方達のことも、忘れません・・・
© 2024 磯崎英隆 (Hidetaka Isozaki)