録音を通して、感性を頼りに追い求める幸福材料の発見

ミセス・ミラーという歌手のラッカー盤。

何年か前から、斜め向かいの家が空き家になっています。
そして昨年(2020年)は、お隣に住んでいた方が亡くなって、
お隣も空き家になりました。
現在の場所に引っ越して来てから、気が付けば
随分長い月日が経ちましたので、お隣さんの家が目に入る度に、
生活されていた様子が、まるで残像のように思い出されます。

古いムード・ミュージックだけではなく、
映画音楽からオールディーズ、日本のレコードでは
戦前から戦中、戦後にかけての時代まで、
録音を研究するようになって常に感じるのは「人」なんです。
その「人」にも「録音されている側」と「それを扱う側」の
二面の解釈があって、結局、私はそれらを追い求めているようです・・・ 

「録音されている側」の人を思う時、
例えば上記の隣家の家主が、どんな人物で、どんな事を
日常にしていたのか・・・という、ある過去の一時期の様子の記録です。
タク・シンド(Tak Shindo) 、イマ・スマック(Yma Sumac)
あるいはレス・バクスター(Les Baxter) など、
私が追い求めているのは、興味のある人々そのものの・・・
もしあえて言葉に出来るものなら
「魂(たましい)の過去のエネルギー」というようなものかも知れません。
その人々の思いとか、考え等といったものの一部が、
所謂「芸術」として表現されているからです。
もちろん他にも遺物はありますが。

そしてもう一面の「それを扱う側」ですが、
これは録音を扱う側・・・つまり私のような人物だったり、
研究家やコレクターであったり、雑誌の記事やライナーなどの
解説を書く人、ラジオの解説者なんかも当てはまるでしょうか。
どんなに素晴らしくて膨大なレコード・コレクションや
資料をお持ちであっても、それを管理するのは人なんですね。
でもその人が例えば、お付き合いさせていただくのに
見合わないような・・・上手い表現が見つからないのですが・・・
とても意地悪な人だったり、
相手(自分)を見下すような人だったり、常に誰かを
自分の利益のために利用しようと考える人物・・・といったような
人(組織も含む)であったなら、
その人自身にも、もちろん魅力が無いのですが、そういう
心の人物が作った、または手掛けたものには(多面的な意味で)
愛が無いのです。
これはライナーひとつ取っても、そこに書き手の内面が
出てしまうことも多々あります。
同じような波長の人達が集まった組織・会社の対応も、例外ではありません。

表面的には分からなくても、
例えば、すごく意地悪な人(ということを個人的にも知ったとして)が
書いている本とか・・・心の中では常に読者を見下しているような人が
書いた本など・・・ふつうは誰もが見たくないと思うはずです。
だから私は自分の未熟な面を認めながらも、
自分の心をいつも見つめて、人の生き方や幸せに関して、
どうあることが良いのかと、
色んな方向から追い求めています・・・
目の前の現世利益というより、もっと大きな視点で、自分そして
周りにいる人達のために何が出来るかどうか。
それが現時点での理想なのです(笑)

ミセス・ミラーの顔が、祖母に何となく似ていて親近感を持つも、母は似ていないと言います(苦笑)

 

ミセス・ミラーのファースト・アルバム。
ジャケットに写っているのが、そのミセス・ミラーです。